M26 実践的アプローチ 5 〜対等な関係を築く〜
ほぼ1ヶ月ぶりの回だった。
今日のテーマは、クライアントとどのように対等な関係を築くか、という内容。
講座の中でメンバーと議論し、出てきたキーワードは「味方」だ。
クライアントの味方であり続けること、これが信頼のベースであるだろう。
コーチが自分のことを見ていたら何のためのコーチングか、ということになる。
クライアントのための時間であり、コーチはクライアントの味方なのだ。クライアントの思考を刺激して、成長の後押しをする。粘り強くサポートすることも時に必要だろう。アドバイスの量が多くなると依存関係になってしまい対等ではなくなるのでその点は注意するとして、クライアントの状態を見極めて必要な時にアドバイスすることもあれば、共感を示すこともある。全てはクライアントのことを考えたことであり、なぜならクライアントの味方であるから。
信頼とはそういう関係性の上に成り立つ。
では対等な関係でなくなるとしたらどんな要因があるだろうか
コーチ側
- 自己承認欲求が高い状態でクライアントと接する。つまり自分のことしか考えていない。
- クライアントを信頼していない。
- クライアントを知ろうとしていない。
クライアント側
他にも出てきた。
- コーチとクライアント間のポジションの影響。例えば威圧的な上司と部下の関係。部下は上司の意に沿った返答をするので、コーチングが機能しない。
- コーチが積極的にアドバイスすると、それはティーチングになってしまいクライアントがコーチは教えてくれる人、という認識になってしまい自分で答えを出そうとしなくなる。
- 会社に言われてコーチングを受けることになり、不服な状態。
今回面白かったのは、若い世代は自分の個性を見てくれないとやる気を失うそうだ。例えば〇〇さんのようになれ、と言われても、それは今の自分を否定しているように受け止められ、やる気を失うか反発する、というもの。
私個人では、〇〇さんを目指せ!みたいなトークはよくあったように思うので、自分の個性を否定されている、というようなことまでは感じないのだが、若い世代は教育現場で順位などの競争を薄めてそれぞれの個性を尊重する、というアプローチで育ったので、比較されることに敏感、なんだそうだ。
個性の時代とよく叫ばれているように、それぞれの個性を見る必要があるのは異論はない。
先生がそこでいっていたのは、伝え方、言い回しの問題だろう、と。
〇〇さんのようになれ、という言葉ではなく、「1年後に〇〇さんがやっているような仕事ができるようになってほしい。あなたならできるとおもうし、もっと早い時期にできるようになれるかもしれない」というような伝え方だと、当人に寄り添いつつ、伝えたい「コト」の部分を切り離して伝えているので、受け止めやすい、らしい。
勉強になる。
もう一つ勉強になるのは、指摘をするやり方だ。
実際講義の中で、他のメンバーの発言へのリアクションだ。
その発言内容に対して私は、もう少し広い視野でみると、その考え方については以前の講義の中で、こういう点に気をつけたほうがよい、というポイントが浮かび上がった。
それを伝えるのに、「以前の講義のなかで、xxxという観点に対する話があったが、いまの話の延長上には、まさにxxxの懸念がでてきそう」という指摘をしそうになったが、それよりも前に先生が、自然な言い回しで伝えていた。
私の言い方は、下手すると「前にいったと思うけど」という上から目線、マウンティング、みたいな姿勢になってしまうし、それを誤りを正すかのような指摘の仕方をしてしまう。
そうではなくて、人は忘れる生き物なのだから、何度でも同じ話をする必要が出てくることを念頭に、そこをわざわざ言うのではなく、必要なことだけを相手が受け入れられるように伝える、ということが、自分にとってのリマインドになった。
私は、正しい、正しくない、正解、間違っている、ということを意識しすぎているのかもしれない。
学校の授業的な感じだ。それは窮屈だ。
わざわざ間違いを指摘するような言い方をするのは、私は正しいとか、自分は気づいた、という優越感に浸りたいだけなのだろうか。ここは我ながら不思議だ。この癖を直したい。
そう思いつつ、自分のコメントは客観的な意見が多い。主観的な意見を出さないのは、自分の意見に自信がないからで、他人を気にしているからに他ならない。自分を守っている、傷つかないようにしているだけだ。それでは人と強い信頼関係は築きにくいのではないか、とふと思う。
自己開示する、ということを意識して実践していくことで、自分が世界に受け入れられている感覚を身につけたい、と思うのだが、どうも元に戻ってしまう。
やっぱり、人と一緒に学ぶ場と対話、あるいは議論というのは発見があるなぁと改めて思う今日この頃。