訊く技術 その3 (というか5)
今回の授業は、「つながり」を見つけることだ。
クライアントの話の中で、AだからB、と語る中に、飛躍や省略がないかどうか。クライアントの中では無意識的につながっていることを、コーチが発見する。
A->Bの「->」にスポットライトを当てることで、クライアントの気づきになる場合がある。
さらには、使う言葉にも注目することが大事。
繰り返して使われる言葉、何度も出てきた言葉が、この話では出てこない、など、クライアントが使う言葉にも注意すると、それがキーワードであることに気づく場合もある。
そして、これらつながりや言葉について、コーチが勝手に空白を埋めないことが大切だ。コーチの考えが入ってしまうと正しくクライアントの風景が描けなくなる。
クライアントの口から語られる言葉だけで構築しないと、ずれてしまう。
私は割と自分の理解確認のために自分の言葉で言い換えてしまうところがあり、これがクライアントの思考を誘導したり妨げてしまったりしていないか、と思ってしまうことがあるので、とても注意が必要な点である。
今回大切なこととして、コーチのクライアントに対する(道義的)責任の話があった。
明らかにクライアントが道を踏み外そうとしているのを見て、コーチは何も言わなくて良いのか、というお話。
例えば、クライアントが犯罪を犯す行動を選択したとしても、コーチは「私には責任がない」と言ってしまうようなことで良いのか、というお話。
もちろんクライアントの意思が重要でそれが大前提ではあるのだけれども、明らかにコーチから見て失敗することがわかっていたらどうするか。
これは程度によるので線引きがとても難しいお話であったが、一つ言えるのは、そのラインを超えるようなお話なのであれば、それはコーチングというものを一旦脇において、一人の人間としてお話をするべきではないか、という先生の話には完全に同意である。
たしかにコーチングはクライアントが主体であり行為をするのもクライアントで、コーチが何らかの結果に直接的に関与することはない。だからコーチには責任がない、と言ってしまって良いのか、という点。
コーチングが目指すところの基礎としてクライアントとの信頼関係があり、それは対等なパートナー関係と言える。そのパートナーが道を踏み外そうとしているときに、何も言わずにただ見ているだけで良いはずがない。それはパートナーとは呼べない。
積極的に口を出す、ということではなく、深刻な問題になることをコーチが判断したのなら、そのコーチの判断のもとお話をする、ということは私はあって良いと思う。コーチはロボットではなく、血の通った人間でありその人間同士の営みの一つとしてのコーチングなのだ。つまり、そういう場面に遭遇したのなら、コーチである前に人であれ、ということだ。
その判断はとても難しいのだが、改めて身が引き締まる思いをした。
そういった話に触れつつ、先生の言葉で記憶に残るものがあり、それは次の2つだ。
- 自信はいつまでたってもつかない。
- (いつチャンスが巡ってきても良いように、そしてそれを掴めるように)準備はしておく。
自信がついて一人前のコーチングになったら.....という発想があるのだが、現実問題として自信というのはいつまでたってもつかない、というのはとても含蓄のある言葉だ。
そこから推し量るのは、プロコーチとして活動されているものの、やはり生身の人間との対話で正解なんてない世界なので、絶対的な自信、というのを得ることなんて出来やしなく、試行錯誤の連続なのだ、というところなのだろう。
だからこそ、準備が大切で、準備をしていないとチャンスは巡ってこないしそれを活かせない。
引き続き私にとって必要なことは学びつつ経験を増やしていくことにつきる、ということだ!